信じられてきた「愛と正義」という名のシステムが、いつしか「壊滅的な暴力」と「冷酷な合理性」を隠蔽する巨大な欺瞞の構造へと変貌していたとしたらどうだろうか。それは、1985年の『ダーティペア』が問うたテーマであり、そして、AIによる最適化とコンプライアンスの美名の下で個人の責任が溶解しつつある2025年の課題に他ならない。本稿は、システムの機能不全を経験した氷河期世代の視線を通じて、「ラブリーエンゼル」という仮面を剥ぎ取り、「汚れ屋二人組(ダーティペア)」が破壊によって掴み取った非合理な自由の倫理の機構を究明する。

序論
『ダーティペア』は、1985年に『機動戦士ガンダム』で知られるサンライズが制作し、高千穂遙によるSF小説シリーズを原作、スタジオぬえがSF設定協力を行った。その特異なタイトルが示す通り、宇宙規模の巨大管理機構を舞台とし、システムの機能不全と個人の非合理的な熱狂という対立構造を徹底的に描出した作品である。テレビアニメ放送開始から40周年を迎える2025年*1、本稿は、システムの機能不全を経験した氷河期世代の視線から、集団的な正当性の主張を懐疑的な構造論理として分析する。
本稿は、【システムの「隠蔽構造」と変容する真実:集団の欺瞞を暴く「個人の責務」の倫理学】という、1980年代から2020年代に至るシステムと倫理の変遷を追う全5回連載の第一回として位置づけられる。論点は、WWWA(世界福祉事業協会)という巨大組織が掲げる「合理的欺瞞」が、いかに構造的暴力を隠蔽し、主人公であるケイとユリの「ダーティペア」としての破壊行為が、その欺瞞に対する倫理的な逸脱として機能しているかを詳察することにある。先行する論考*2では、個人的な内面世界における非合理な呪縛の清算を扱ったが、本稿ではその視点を欺瞞的な集団構造へと転換する。すなわち、システムの非当事者による破壊の倫理という論理的な問いを確立し、連載全体のマクロな社会論へと接続するシステムの構造を析出する契機を確立する。
1. 巨大システムの欺瞞と構造的な矛盾
『ダーティペア』の世界観を支配するのは、全宇宙の福利厚生とトラブル解決を担うWWWAである。テレビアニメが放送された1985年という時代は、技術の進歩に対する楽観主義と巨大組織による管理が社会を覆い始めた時期であり、WWWAはその時代の要請を象徴する。当時の従来の言説は、ケイとユリの行動をスペースオペラの活劇要素として捉える傾向にあったが、本分析は作品の持つ倫理的構造に焦点を当てる。
1.1. 合理性の呪縛と「ラブリーエンゼル」の機能不全
WWWAの理念は、宇宙規模の社会秩序維持と福祉の実現という「合理的至上主義」に根差す。ケイとユリの正式なコードネームが「ラブリーエンゼル」である事実は、組織の規範的な正当性と愛と正義という大義名分を担保するための公的なペルソナとして機能する。
作品当時の巨大コンピューターシステムによる制御は、現代のAIガバナンスと論理的に同型の「管理・統制の機能」を持つ。このシステムは、目的と、それを達成するための手段が乖離し、逸脱行為としての破壊を誘発する構造を内包している*3。ラブリーエンゼルという大義名分と、彼女たちの「事件解決ごとに舞台となった星に壊滅的な被害を出す」という破壊的結果の間に存在する構造的な矛盾は、WWWAの合理性が、真の倫理的理解を伴わない記号処理に過ぎないという倫理的論点を際立たせる。現代においてAIによるリスクスコアリングが、個別の文脈を無視し差別を再生産するリスクがあるように、このシステムの倫理的空洞化は、論理的な応答のない機械的処理の極致である*4。
1.2. 構造的暴力の隠蔽とプロパガンダ戦術
WWWAの「効率的」な問題解決は、結果として甚大な被害、すなわち構造的暴力を伴う。にもかかわらず、その非は不可避の事故として矮小化され、ラブリーエンゼルというプロパガンダによって隠蔽される。作中における情報統制や報道の歪曲は、この欺瞞を維持するための広報戦略として機能している。
彼女たちが「ダーティペア(汚れ屋二人組)」というあだ名で呼ばれ、「誰もその名(ラブリーエンゼル)で呼ぼうとしない」という事実は、集団的な正当性の主張が、現実の経験と真実によって倫理的に拒否されている構造を示す。この構造は、「コンプライアンス」や「SDGs」という美名の下で、不都合な真実の隠蔽や責任の分散を行う現代の巨大組織の構造と論理的に重なる(いわゆる「倫理洗浄」)。ケイとユリのミクロな破壊行為は、大義名分の下で発生する構造的暴力を強制的に可視化する倫理的逸脱として分析される。
2. 個人の責務の逸脱と非合理な熱狂
システムの機能不全と構造的欺瞞に対峙するケイとユリの倫理的な駆動原理は、システムへの奉仕の倫理を拒否するプロフェッショナルな責務の逸脱に他ならない。彼女たちの非合理な行動、すなわち熱狂的な破壊活動は、効率という集合的な呪縛から個人の自由を倫理的に再起動させる喪失と個人の証言として究明される。
2.1. 非効率的な破壊と自由の獲得
ケイとユリは、任務の最終的な成功にもかかわらず、その過程で桁外れの破壊を引き起こす。彼女たちの非合理な行動は、システム崩壊という喪失を恒常的に生み出し、「効率性」というシステムに回収されない、無駄で非生産的な破壊を遂行する。この無目的的な破壊こそが、人間的な生の強度を証明する倫理的論点である*5。
一方的な破壊は「コラテラル・ダメージ(付随的被害)」を招くという功利主義的な批判は免れない。しかし、この非効率的で、結果的に高い代償を伴う行動は、経済的な合理性の呪縛を経験した氷河期世代の視点から見れば、「失われた30年」を経て形骸化した社会システムへの痛烈なアンチテーゼとなり得る。システムへの奉仕から自由な自己の証言を獲得する倫理的な抵抗として、彼女たちの非合理な熱狂は、システムが規定する虚構の倫理に対する自由の証言であると価値づけられる。
2.2. 非合理な行動主体の倫理的駆動原理
ケイとユリの破壊行為の倫理的な駆動原理は、一様ではない。この分析は、二人の行動を個別の倫理的逸脱として構造的に分析する。
ケイの行動は、しばしば直情的な暴力性に依拠し、目の前の他者が受ける不正に対し、合理性を超えて衝動的に応答するという、実存主義的な責任が駆動していると分析される*6。一方、ユリの行動は、一見冷静に見えるが、システムの不完全さに対する美意識や完璧な任務遂行の倫理的逸脱として機能し、合理性への皮肉な抵抗の様相を呈する。彼女たちの非合理な行動は、単なるヒューマンエラーではなく、システムの欺瞞を見抜いたプロフェッショナルとしての倫理的責務の再定義である。作中、ムギのような人工知能による合理的なアドバイスを彼女たちがしばしば無視する行動は、「倫理を技術に委譲しない」という明確な宣言であり、AI時代における人間の倫理的基盤を示唆する。
3. 倫理的行動主体の移行と転換点
本論考が確立した、非合理性(人間性)が技術的合理性を乗り越える試みという結論は、次なるテーマへと論理的な必然性をもって繋がる。
3.1. 非当事者による倫理的介入の意義
ケイとユリは、解決すべきトラブルの当事者ではない。彼女たちの非当事者という立場は、システムの合理性の呪縛に完全に組み込まれていない外部の視点を担保する。この外部からの非合理的な介入こそが、システムの欺瞞を倫理的に暴くための駆動原理となる。
巨大な管理機構というシステムの外側から、非合理的な手段を用いてシステムに喪失をもたらす行為は、効率という集合的な呪縛から個人の自由を解放し、倫理的なアイデンティティを再構築する。これは「システミック・ディスラプション(破壊的介入)」として、硬直化した構造に代謝を促す倫理的機能を持つ。
3.2. 次世代への接続:集団の倫理へ
システムの非当事者による破壊という個人の倫理的行動主体の在り方は、次なる段階である、当事者による変身と集団の再構築の倫理へと、倫理的行動主体の移行という論理的な問いを提示する。
非合理な人間性が技術的合理性を乗り越える試みは、次なる論考が問う、旧態依然とした規範が個人の生の強度を抑圧する構造に対する、倫理的な解放の物語へと接続する。
結論
『ダーティペア』が描出した巨大システムの欺瞞は、合理性の名の下で、いかに倫理的な選択と個人の自由が圧殺されるかを浮き彫りにする。ケイとユリの非合理な破壊活動は、その圧殺された人間的な生の強度を、システムの崩壊という代償を伴いながらも再起動させる倫理的な対抗軸である。このシステムの非当事者による破壊の倫理という論点は、次回の論考が扱う、集団の欺瞞に立ち向かい、変身という倫理的な逸脱を通じて新しい集団の倫理的規範を確立しようとする倫理的行動主体の移行という論理的な問いへと接続する。それは、瓦礫の中から立ち上がり、自らの姿を変えることで社会を再構築しようとする、美しき戦士たちの物語へと連なる。
*1:TVアニメ『ダーティペア』は2025年に放送40周年を迎え、現在、サンライズ公式サイトにて関連イベントや商品展開が行われている。「『ダーティペア』シリーズポータルサイト」を参照。
*2:前回記事「『すずめの戸締まり』:集合的無責任と「愛という名の犠牲転嫁の倫理」では個人の非合理な呪縛の清算を、その前の論考「『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』: 集団的狂気と「未熟な精神の終末論」」では集団的狂気を分析した。
*3:ロバート・マートンによるアノミー論。社会が提示する目標と、それを達成するための手段に乖離が生じた際に規範意識が失われる状態を指す。
*4:ジョン・サールの中国語の部屋論。人間が持つ「意味の理解」を、コンピュータの「記号処理」は代替できないとする思考実験。
*5:ジョルジュ・バタイユの供儀(sacrifice)論。「有用性」や「生産性」といった経済的合理性を超える、非生産的な蕩尽行為によって生を回復する思想。
*6:エマニュエル・レヴィナスの他者への責任。自己の自由や合理性を超え、目の前の他者の苦痛に対して無限に応答せざるを得ない倫理的義務。