社会を支える巨大な物語やシステムが実質を喪失したとき、人々が求めるのは新たなイデオロギーではなく、温かい浴槽である。紀元130年代のローマ帝国の設計技師ルシウス・モデストゥスが現代日本の銭湯へと時間跳躍する物語『テルマエ・ロマエ』は、時代錯誤的対比(アナクロニズム)を批評装置として用い、政治や社会といったマクロな領域が機能不全に陥った際、個人が自らの生存領域を「身体の快適さ」という最小単位にまで縮小し、そこに絶対的な倫理的防衛線を敷くという、極めて現代的な生存戦略を暴き出す。この批評において、ルシウスの行動を「機能的倫理」すなわち、外部の権威ではなく自らの身体感覚のみを判断基準とする態度として定義し、現代の「ウェルビーイング」や「ミニマリズム」の流行が内包する構造的な必然性と、その背後にある残酷な特権性について分析する。

序論:2010年代の閉塞と身体への回帰
本稿は、一連の批評企画【理性の最果て:システム崩壊後の『生の強度』と『非合理な呪縛』の倫理学】(1980年代から2020年代に至るシステムと倫理の変遷を追う全5回連載)の一部である。
ヤマザキマリによる原作マンガが2008年に連載を開始し、アニメ化や武内英樹のメガホンのもと2012年に実写映画化され国民的ヒットとなった『テルマエ・ロマエ』は、単なるメディアミックス作品ではない。本稿の分析は、原作が提示した根源的なテーマと、実写映画版が女性主要キャラクターの役割(原作のヒロイン・小達さつきから、映画のマンガ家志望・山越真実への変更)を大幅に変更し、終盤に彼女が作中作『テルマエ・ロマエ』の作者となるメタフィクション構造を導入してまで一般に浸透させた構造的メッセージの両方を統合したものとして論じる。当時は「失われた20年」と呼ばれる経済停滞が常態化し、さらに東日本大震災を経て、国家レベルのインフラや安全神話に対する信頼が根底から揺らいでいた。特に、興行収入58億円を記録した映画の大成功の裏側で、原作者に対して支払われた原作使用料が100万円のみであったという公の発言は、巨大な利益を創出しながら、その分配において公正なシステムが機能していないという、当時の社会が抱える構造的な不信感を象徴的に露呈させた。[前回の論考]では、2000年代の『パプリカ』が描いた、テクノロジーによる意識への侵入と情報の暴走を分析した*1。本稿で扱う『テルマエ・ロマエ』は、その極度の複雑性と情報過多からの反動として位置づけられる。すなわち、制御不能な外部世界から遮断された「風呂」という密室において、確実な身体感覚を取り戻そうとする切実な「撤退戦」の記録である。
1. 壮大さの否定と機能的民主主義の発見
ルシウスが古代ローマから現代日本へと移動する際、最も劇的に変化するのは、空間に対する価値の置き方である。ここでは、彼が直面した「ローマ的システム」の限界と、日本で発見した「機能的合理性」の対比を通じて、彼が選び取った新しい倫理の形を分析する。この時空移動とそれに伴うアナクロニズムは、ルシウスの価値基準を根本から転倒させる批評的装置として機能する。
1.1. 権力誇示としての建築とシステムの疲労
古代ローマにおける公衆浴場(テルマエ)は、単なる衛生施設ではなく、皇帝の権威を民衆に示すための巨大な政治装置であった。そこには「ポンパ(Pompa)」すなわち壮大さや華美な虚飾が溢れていたが、その維持管理は奴隷労働という非合理な人的資源の搾取に依存していた。ルシウスがローマで感じていた閉塞感は、実質的な機能よりも形式的な威厳を優先する、硬直化した組織や国家システムへの疲労感と重なる。彼が設計図を引く際に見せる苦悩は、システムが肥大化しすぎて個人の幸福に寄与しなくなった社会における、誠実な技術者の絶望を反映している。
1.2. ユニットバスに見る機能的民主主義
対して、彼が日本で目撃したユニットバスや銭湯の設備は、ローマ的な「壮大さ」を徹底して排除している。限られた空間で最大の効用を生むための設計、一定の温度を保つ自動給湯システム、そして階級に関わらず誰もが清潔な湯を享受できる仕組みは、技術による「機能的民主主義」の具現化と言える。ルシウスが日本の技術に感涙するのは、それが権力の誇示のためではなく、純粋に「使用者の身体的苦痛を取り除く」という目的のためだけに研ぎ澄まされているからである。この「機能への回帰」は、マクロな大義名分を失った現代人が、自らの生活圏内における「確実な成果」や「手に職」といったミクロな確実性を志向する精神性と強く共鳴する*2。
2. 身体統治術としてのウェルビーイングとその政治的代償
ルシウスが追求する「快適さ」は、単なる快楽主義(ヘドニズム)ではない。それは、過酷な社会システムの中で正気を保ち、生き延びるための自己管理技術である。ここでは、ミシェル・フーコーの哲学を補助線としつつ、現代の「サウナブーム」にも通じる政治的な逆説を解剖する。
2.1. ストイシズムからの戦略的離脱と自己配慮
ローマ社会の主流であるストイシズム(禁欲主義)は、公への奉仕や我慢を美徳とする。しかし、ルシウスはこの規範から逸脱し、自らの身体を癒やすことに全精力を注ぐ。これはフーコーが後期思想で展開した「自己への配慮」あるいは「生存の美学」の実践と解釈できる。彼は、外部から押し付けられる道徳律ではなく、自らの身体が良いと感じる状態を維持・管理することを、新たな倫理的規範として設定した。現代において、政治的無力感に苛まれる個人が、筋力トレーニングやサウナ活動(サ活)に没頭するのは、自分自身がコントロール可能な唯一の領分である「身体」を統治することで、自律感覚を回復しようとする試みである。
2.2. システムを延命させる「癒やし」のパラドックス
しかし、ここには看過できない逆説が存在する。ルシウスが日本から持ち帰った「癒やし」の技術は、結果としてハドリアヌス帝の支持率を回復させ、疲弊したローマ市民の不満を解消するガス抜きとして機能した。つまり、彼の個人的な「システムからの逃避」は、皮肉にも「システムの補強と延命」に加担してしまったのである。これは現代の「企業主導のウェルビーイング」に対する批判的視座と重なる。労働環境そのものを改善するのではなく、マインドフルネスや福利厚生としてのサウナを提供することで、労働者を回復させ、再び過酷な労働市場へと送り出す。この構造において、「ととのう」という身体感覚は、現状維持のための燃料として資本主義システムに回収されてしまう危険性を内包する。
3. ミニマリズムという特権と排除の論理
最後に、ルシウスが到達した「シンプルであること」の価値を、現代的な視点から再評価する。ノイズを排除し、本質的な機能のみを愛する態度は、一見すると賢明な生存戦略に見える。
3.1. ノイズキャンセリング社会の美学
ルシウスは、無駄な装飾や煩わしい人間関係を嫌い、機能美に満ちた静寂な空間を愛した。情報過多な現代において、不要なものを遮断する「ミニマリズム」は、認知資源を守るための有効な防衛策である。複雑な政治的課題や解決困難な社会問題から目を背け、「温かい風呂」という純粋な感覚世界に没入することは、精神的な安定を保つためのシェルターとして機能する。彼の態度は、複雑すぎる世界に対する「ノイズキャンセリング」の美学であり、多くの現代人が共感する「静かな生活」への希求を体現している。
3.2. 「共有空間」としての銭湯と特権性の相対化
しかし、ルシウスが日本で体験した公衆浴場(銭湯)の存在は、この議論に重要な反転をもたらす。銭湯という「公衆浴場=コモンズ」は、高価な設備を個人所有せずとも、経済的格差を超えて誰もが「清潔さ」という基本的な機能的幸福を享受できる機会を提供していた。この「機能の公的アクセス権」こそ、ルシウスの「機能的倫理」を単なるエリートの優位性に留まらせず、その特権性を一定程度相対化していた点も看過できない。それでもなお、「快適さ」そのものが贅沢品となりつつある現代において、このルシウス的な倫理は、そのアクセス権を持てない人々に対し、「快適さの確保ができないのは自己管理の怠慢である」という自己責任論を強化し、構造的な選別を容認する可能性を内包する*3。
結論
『テルマエ・ロマエ』は、システム崩壊の時代における個人の救済を描いた重要な作品であるが、同時にその救済の限界をも露呈させている。ルシウスが示した「機能的倫理」は、マクロな絶望から身を守るための有効な盾であるが、それはあくまで個人の内面に閉じた解決策であり、世界そのものを変える剣にはなり得なかった。清潔なタイルに囲まれた安全な浴槽の中で、一時的な安らぎを得ることはできる。しかし、風呂から上がれば、そこには依然として解決されない現実が横たわる。
次回の考察では、この清潔で機能的な空間から一転して、逃れられない血縁、因習、そして泥にまみれた土着的な呪いが支配する村へと足を踏み入れることになる。近代的な合理性や機能美では決して洗い流せない、歴史の澱(おり)と向き合うことになる。